第九章
そして、一晩、シロは泊まった。その朝、
「シロちゃん。昨日は帰らなかったの。まあ、それでは、電話で知らせなくちゃ」
沙耶加は、普段の通りに出勤して来て驚きの声を上げ、その響きが室内に響き渡った。
「海さん、おはようございます。今日も宜しくお願いしますね」
「お、は、よう」
そして、事務所に入ると、直ぐに電話を掛けた。その内容はシロの事だろう。その後、時間を気にしながら朝食の用意を始めた。勿論、シロの食事の用意を忘れるはずはない。何故、それほどに時間を気にしているか、そう思うだろう。それは、シロの事で、依頼者と、その母に謝罪をしなければならなかったからだ。それだけではなく、普段なら買い物から集金やいろいろの支払いなどは、リハビリを兼ねて一緒に出掛けていたのだが、初めての探偵行で全てを後にしていた為に、今日、全て終わらせるしかなかった。まあ、買い物は、今日でなくていいだろう。そう思うが、また、行動計画書を作成して、一緒に出掛けたのでは時間が掛かり過ぎるし、冷蔵庫が空だと言う理由もあったのだった。
「私、もしかしたら、今日は夕方まで事務所に戻れないかもしれません。それで、昼職は用意しておきますから食べて頂けますか」
「はい、その指示に従います」
「食べ安いように、おにぎりを作っておきますね」
「はい、ありがとうございます。指示の通りに食事を済まします」
沙耶加は、時間に追われていた為に、海の様子に気が付かなかった。昨日までと比べて正気のような状態と思えた。思考もして無いのに返事を返したからだ。もしかしたら、一人にしないでくれ、と、脳内で悲鳴を感じているのだろうか。それとも、沙耶加の行動計画書やリハビリで散歩などのお蔭で、段々と正気を取り戻し始めてくれたに違いない。それなのに、視線も向けずに、又、声を上げた。
「海さん。ごめんなさいね。私、時間が無いの。もう出掛けるわね」
「・・・・・・・・・・・・」
海は、声を掛けられたが返事は出来ない。そして、何故、一人にされるのかと、沙耶加が部屋を出るのを、不審そうに見続けているように思えた。
「これなら、手土産の菓子を買って行ける時間はあるわね」
扉を閉めると、ペンダント型の小さい懐中時計を開いた。そして、蓋を閉める時。
「ごめんね、海さん。本当は、一緒に行きたいのよ。許してね」
沙耶加は、蓋の裏の写真に向かって話しを掛け、大事そうにポケットにしまった。恐らく、いや、絶対に一番の宝物のはずだ。まだ、海の両親が健在の時、海は、今より、少しは人間らしかった。その時に、物語を聞かせてくれて、そして、懐中時計を選んでくれたのだ。その物語の内容は憶えていないだろう。だが、ある部分だけは憶えているはずだ。それで、今でも使用しているのだろう。それは、願うほど欲しい物や好きな人の写真を入れておくと、願いが叶う。そう言う話しをした為に、今まで、大事に使っているはずだ。まあ、物語の話しよりも、宝物でも探すように街中を歩き回った事や嬉しそうに物語を話してくれた。あの笑顔、その思い出が一番の宝物だろう。
「うわあああ」
菓子店に着くと、驚きの声を上げた。
「如何しました?」
「ごめんなさい。まさか、限定の菓子が残っているなんて想像も出来なかったから」
「そう言う人は多いですから、気にしなくていいですよ」
「そう何ですか」
「そうですよ。喜びの余りに、気を失った人もいましたしね」
「うっそー」
「それで、お買い求めするのですね」
「はい、そうです。その残り二個をね。それで、お願いがあるのですが」
「はい、なんでしょう」
「あの〜ですね。昼過ぎにもう一度、店に来ますので取って置いてくれませんか」
「あああ、構いませんよ」
「ありがとうございます。それと、Aの菓子詰め合わせを一つ下さい。それは、今、持ち帰りしますから、包装もお願いしますね」
「はい、畏まりました」
そして、五分位待っていると、菓子を手渡された。その時に限定の菓子の代金は前払い。と言われ、合わせた値段を言われた。
「ありがとう」
「あっ、お名前を聞かせて下さい。交代する人に伝えておきますから」
「田中 沙耶子です」
「はい。田中 沙耶子さんですね。またのお越しをお待ちしています」
「うん。又、必ず来ますわ」
これから、苦情を聞きに行くと言うのに、沙耶加は嬉しそうだ。何故だろうか、まるで、思い人にでも会いに行くようだ。まあ、恐らく、限定菓子の事を考えているはずだ。あの菓子は美味しくて好きなのだが、特に、海が一番好きな菓子だ。それで、海が美味しそうに食べている姿を想像しているのだろう。そして、満面の笑みで「ありがとう」と、言葉を掛けてくれるのではないか。そう思っているはずだ。
「はっあー」
沙耶加は、長い溜め息を吐いた。今思っている事が夢だと感じてしまったのか、それとも、懐中時計の写真と、思い描いている満面の笑みと比べようとしたのか、懐中時計の蓋を開けた。
「あっ、もうこんな時間、急がないと駄目ね」
写真を見て、視線を文字盤に移すと、惚けていたのだが、一瞬で真顔に戻り早足で歩き出した。それでも、様々な商店の前を通ると視線を向ける。海に何を作ってあげようかと考えているのだろうか、それとも、安売りの物でも探しているのだろう。どちらでも、海の事を考えているのは確かだった。住宅街に入ると、興味を引く店が無いからだろう。それで、予定通り少し早く着いた。
「こんばんは、探偵事務所の者です」
そう言葉を上げて、暫くしてから呼び鈴を押した。
「はい、お待ちしていました。どうぞ、お上がり下さい」
慇懃無礼のような話し方だ。シロの事で不快な思いをしているからだろう。
「本当に済みません。上がらせてもらいます」
「どうぞ」
沙耶加は、来るには着たが何も考えていなかった。猫と話しが出来るはずも無く、でも、二匹を離さなければならない。それは、分かっていたが、それを、どうすしたら良いかと、今でも考えている為に、目線を合わせられなかった。
「どうぞ、座って寛いで下さい」
前回の時は、応接間のような客として扱ってくれたが、今回は居間に案内された。それならば、親しみを感じてくれている。そう思うだろう。だが、冷たい視線からは、言い訳は聞かない。納得が出来る話を聞くまで帰さない。そう感じられた。その為に自分が疲れない部屋に案内をしたのだろう。
「沙耶加さんでしたね。シロちゃんが居ると、息子の謙二は嬉しそうな顔をしているように思えるの、何とかシロを返してくれませんか、無理でしたら、もう一匹の猫も飼ってもいいのですよ。その方が、謙二も喜ぶような気がします」
「もう一匹の猫も飼い主を探しているのです」
「そうなの」
「野良猫と分かれば、それが一番いいですね。その時はお願いします」
「それで、肝心な話ですが、シロちゃんは帰って来るのですね」
「それですが、私の所に来ても、この家に連れ帰しに来ます。何度も、そうしていれば、駄目だと分かるはずです。それか、この家に二匹を連れて来るかです」
「私は、二匹を飼うのはいいですよ」
「ですが、もし、飼い主が見付かった時は、返してもらいますよ」
「仕方ないわね」
「それでは、二匹を連れて来ます。それで、いいのですね」
「はい、お願いします。娘にも、そう伝えておきますわ」
「よろしくお願いします。それでは、これで、失礼します」
何かに急いでいるような口調だ。恐らく、沙耶加は、適当に話を合わせた事に気が付かれる。そう思い、急いで家から出たいのだろう。それは、家を出ると態度を表した事ではっきりと分かった。胸に手を当てて、心臓の鼓動を静めようとしていた。そして落ち着きを取り戻すと、歩き出した。
「今日は何にしましょう。肉にしようかな、魚にしようかしら」
別人のような満面の笑みを浮かべながら呟いた。
「えへへ、海さんが好きな限定の菓子もあるわ。嬉しそうな表情を見せてくれるかな」
さらに顔が緩んだ。妄想していたが、買い物も菓子を取りに戻る事は忘れるはずもなかった。それも、普通に買い物を済ましたのでは無い。まさか、と思うはずだろう。それは、この家を向かう途中に妄想しながら店を見ていたのは、海の好きな物を思案していたのではなかった。時間限定の品物を記憶していたのだ。それに、驚くのはまだある。走り回るのでなくて、妄想状態でのんびりとした歩き方で全てを買うことが出来たのだ。恐らく、海の行動計画書を書いていたからだろう。自分の歩く速度から道の距離や全ての妨げになることを一瞬で判断したから出来たはずだ。これほどまで心底から楽しみにして帰宅したが、海は、限定の菓子を食べても微かに微笑むだけだった。酷い。そう思うだろうが、ここ何日の行動計画書のお蔭で、少しは人間らしい感情は表れていた。それでも、一瞬の微笑みだったが、それでも、沙耶加は心底から喜んでいた。
「海さん。もう一つあるわよ。どうぞ」
この後に、海の一言で驚きの悲鳴を上げた。
「あり、が、とう。私は満腹です。沙耶加さんが、食べてください」
沙耶加は、失神するほどの驚きを感じた。やっと、自我のある言葉を聞いたからだ。
「海さん。全ての記憶があるのは分かるわ。正気に戻ったの?」
「正気?記憶?」
「そうそう。いろいろ憶えているの?」
「確かに記憶はあります。遺言書以外の参考の項目に、沙耶加の忘れちゃ駄目よ。三か条も記憶してあります」
「えっ?」
「沙耶加の忘れちゃ駄目よ。三か条、第四十章。甘い物は、女性の栄養源と言われました。男性は一個。もし他に残っている場合は、それは、女性の物だと命令されました。その事でしょうか?」
「バカ。ああっ幼稚園の時のことね。命令ではないわよ」
「はい。そのように変更します」
「馬鹿。もう、いいわよ」
「馬鹿?」
「もう、海さん。遺言状を初めから復習しなさい」
「はい、指示に従います。第一章、第一、全ての事柄は、朝の挨拶から始まる」
海は、沙耶加の指示で父が残した遺言書の内容を叫んでいた。その様子を、沙耶加は残りのケーキを食べながら楽しそうに見つめ続けた。暫く、見続けていたが、
「シロちゃん。そろそろ、家に帰る時間よ。一緒に帰りましょうね」
そうつぶやいた。シロを抱え上げると、不審そうに天猫に向けて鳴き声を上げた。
「海さん。遺言書の復習は中止。シロの家までの道順は憶えていますね」
「はい。全てを記憶しています。危険、注意の項目も記憶にあります」
「それでは、シロを家に帰しますから一緒にきて下さい」
探偵事務所の外を出ると、沙耶加は、何時ものように恥ずかしい気持ちを味わった。今なら慣れていたが、子供の時は、いろいろ愚痴を言っていた。それが、積もり溜まったのが、沙耶加の忘れちゃ駄目よ。三か条だ。海の記憶だけで本にはしてないが、もし、本にしたとしたら軽く百冊分はあるはずだ。それで、なにが恥ずかしいのか、そう思うだろう。海と一緒にいると確かに目立ち、視線も感じる。今回は、行動計画書も与えずに好きに行動させていたから普段よりも変な行動をしていた。
「海さん。そんなに警戒しなくても、大丈夫よ」
沙耶加は、海の行動を見ていると、まるで、自分が護衛をされるような人物にでもなった。そんな気分を感じた。探偵事務所を出る時は、先に出たのだが、カギを閉めている間に、海が、危険や注意を感じる所を探し周り検査していた。それからは、海が先を歩き、少しでも危険や注意を感じる物を検査していた。まあ、恥ずかしい気持ちになるが、嬉しい気持ちにもなっていたが、全て、海の身の危険から守る為。そう思うと、少し悲しい気持ちになっていた。
「沙耶加さん。私の周り百メートルは五分の間は、何も危険はない。一緒に歩く事が出来ます。次の百メートル先を進みます」
「はい、はい」
この様に,百メートル歩く毎に危険、注意と思う箇所を検査していた。それでも、沙耶加は嬉しかった。今回は行動計画書が無い。自主的に行動してくれたからもあるが、少しだが、沙耶加の安否も気遣ってくれている。そう感じることが出来たからだ。
「確認が済みました。次にいきます」
「ありがとう」
このように何度も同じ事を繰り返し。やっと依頼主の家に着く事が出来た。
「まあ、おかえり。シロちゃん」
今まで、シロを探していたのだろうか、それとも、シロを連れ帰る。そう連絡が来たからだろう。それで、待ちきれなく玄関の外で待っていたのだろうか、シロが視線に入ると、会える喜びで駆け寄って来た。つい先ほどまで心配で顔が引きつっていたが、会えた喜びだろう。満面の笑みに変わっていた。
「約束の通りにお連れしました。それでは、後はお願いしますね。それと、トラちゃんが、外に出たいようなら出して下さい。トラちゃんなら何も心配しなくて大丈夫ですからね」
「はい。そうします。安心して任せて下さい」
「それでは、私は帰ります。また、シロちゃんが来るようなら、又、連れてきますね」
「よろしくお願いします」
「それでは、失礼します」
沙耶加は、深々と頭を下げると、海に視線を向けた。
「海さん。帰りますよ」
「はい、その指示に従います」
海は、置物のように立ち尽くしていたが、沙耶加が声を掛けると、喜んでいるかのように表情を浮かべ歩き出した。
「はっあー、また、同じように確認するのね」
沙耶加は、先を歩く海を見ると大きな溜め息を吐いた。そして、愚痴のように独り言をつぶやいた。このように同じ事を、三日、四日と続け、五日の朝、驚きの声を上げる事になる。それは、同じように出勤して、扉を開けて直ぐだった。
「海さん。おはようございます」
「沙耶加さん。今日も」
海の元気な姿を確認が出来たからだろうか、沙耶加は、挨拶を最後まで聞く事なく、忙しそうに日課を始めた。それでも、普段は真っ先に海の朝食の準備を始めるのだが、この数日は、天猫とシロの朝食から初めていた。恐らく、初めての仕事の依頼だからだろう。
「トラちゃん。シロちゃん。朝ご飯よ」
両手に、二匹の朝食を持ちながら寝ているはずのダンボールの箱に視線を向けた。
「えっ。トラちゃん。シロちゃん。何処なの?」
やっと、二匹が居無いのに気が付いた。
「うぁああああ、シロちゃんが居無いわ」
叫び声と同時に電話が鳴った。
「はい、山田 省吾、探偵事務所です」
「シロちゃん。シロちゃんは、事務所に居るわよね。起きたら居なかったの。今までの通りに連れて来てくれるわよね。大丈夫よね。本当に大丈夫ですわよね」
「はい、大丈夫です。お連れします」
つい、心底から心配しているような怒りのような声で、嘘を付いてしまった。
「良かったわ。事務所に居るのね。良かったわ。よろしくお願いしますね」
嘘を付いた事で、心の正気を取り戻したのか、そうでは無いだろう。電話口の依頼者の落ち着いた話し声で、沙耶加も正気を取り戻す事が出来たはずだ。
「あっ、済みませんが、今日は、今までの通りの時間にはお連れ出来ません。別の依頼者の依頼がありまして、済みませんが夕方にお連れします」
「え、え、でも」
「済みませんが、元々、依頼者の娘さんの帰宅時間までお連れする。それが、依頼内容でしたはずです。必ず、夕方までお連れします」
「えっ。ああ、分かりました。シロちゃんは、事務所に居るのですね」
「夕方に必ずお連れします」
「そうなのね。シロちゃんは居るのですね。分かりました。待っています」
「それでは、失礼します」
沙耶加は、落ち着いたように嘘を突き通していたが、それでも電話を切り終えると
「うぁああああ、どうしましょう。どうしましょう」
頭を抱えながら叫び声を上げてしまった。
「沙耶加さん?」
海は、囁いた。悲しみが伝わったのだろうか、それで、微かな自我が現れたのだろうか、海は沙耶加の元に近寄り、沙耶加の頭を優しく撫でた。
「海さん?」
「行動計画書の行動時間がきました」
微かな自我は有ったと感じたのだが、行動計画書の行動だったようだ。
「ほんとうに〜もうー、海さんの馬鹿」
沙耶加は、海の変な行動のおかげで、完全に元の自分を取り戻せた。そして、正気の状態でゆっくりと思案が出来た。
「う〜ん。どうするか、夕方まで時間があるわ。でも、探し出せるか、海さんにも手伝ってもらうけど、まあ、今の海さんは、記憶だけは良いから、ねね。海さん」
「は、い?」
海は、予定に無い言葉を聞き、思案よりも驚き声をあげた。
「ねね、シロとトラの特徴は憶えている。会えば、二匹だと判断が出来る?」
「記憶はしてあります。会う事が出来れば、シロとトラなのか判断が出来ます」
「そう、分かるのね。それなら、シロの家の往復と同じ行動計画書でね。ある地図を見せるから同じように行動と、捜索して欲しいの。まあ、距離は五キロくらい有るから範囲は広いけどね。それで、一番の肝心なのは、歩いている時、猫を見付けたら、全ての猫を記憶して欲しいの。出来るかしら?」
「はい。指示の通りに行動が出来ます」
「ああ、海さん。行動計画書には書いて無いけど、二匹と会ったら全てを無視して、二匹が落ち着く場所、その範囲を記憶して、待ち合わせ場所に来て欲しいの。待ち合わせの場所は、そうね、公園にしましょう。ブランコの前で待っていて。私は、公園の周辺で探します。ちょくちょく行くから安心してね。それでは、そろそろ、出掛けましょうか」
海は、大人しく話を聞いていた。最後にうなずいたのだから話しの内容が分かったのだろうか、それとも、微笑みを浮かべて話をする姿に見惚れていたのだろうか、それは、今の海の様子では分からないが、それでも、海も楽しみを感じているようにも思えた。